
工業化学科の喜多のグループ
1937(昭和12)年
The Kita Group, Department of Industrial Chemistry
1937年3月、卒業する3回生とともに工業化学教室建物前(現吉田キャンパス)にて撮影。着席者左から木村和三郎、桜田一郎、喜多源逸、小田良平。木村の左に立つのが李升基。李の左後が淵野桂六。桜田の後が常岡俊三。最後列左端が小林恵之助。その左前が近土隆。喜多の左後の学生が舟坂渡。舟坂の左後が古川淳二。1列目右端に立つのが岡村誠三。グループのメンバーのほとんどが化学研究所所員を兼任しました。近土家所蔵。(「化学者たちの京都学派 -喜多源逸と日本の化学-」古川安著 P44より)

喜多源逸(1883-1952年)工学博士
化学研究所第2代所長(1930-1942)
1883年 奈良県に生まれる
1916年 京都帝国大学工科大学助教授
1921年 京都帝国大学教授
1922年 理化学研究所、主任研究員
1930年 京都帝国大学化学研究所所長(1942年9月まで)
1939年 京都帝国大学工学部長(1941年9月まで)
1939年 工業化学会会長
1949年 浪速大学(現 大阪公立大学)初代学長
1950年 日本化学会会長
喜多源逸は、化学研究所第2代所長として12年間研究所運営を担いました。京都帝国大学工学部工業化学科教授、燃料化学科教授、工学部長、化学研究所所員、理化学研究所主任研究員を兼任し、「化学の京都学派」と呼ばれる独自の学風を築きました。その学風の一つは基礎の重視にあり、理学部以上に基礎を重視したとさえ言われ、その典型は、福井謙一を中心とした量子化学の系譜にも見られます。福井は喜多の遠縁にあたり、「数学を好きなら化学をやれ」という喜多の助言をきっかけに京都帝国大学工学部工業化学科に入学しました。
また、応用面では、人造石油、合成繊維、合成ゴム、プラスチックなど、基礎研究から工業化に至るまで目覚ましい成果をあげるとともに、学術界、産業界に多数の優秀な人材を輩出しました。

人造石油(化学研究所所蔵)
研究室運営
喜多は理化学研究所(理研)の主任研究員(14人のうちの1人)となり、その身分を1922年から京都帝国大学退官後の1952年まで維持しました。理研の主任研究員制度は、主任研究員が人事、給与、研究費などの裁量権を持って研究室を運営し、研究室も各帝国大学に置くことが認められていました。
そのため、京都帝国大学の中の喜多研究室では、桜田一郎、児玉信次郎、小田良平、宍戸圭一、新宮春男などの自分の弟子たちを理研の研究生、助手、嘱託として採用することができました。
喜多の基礎研究の重視、産業化という学風は、「理研精神」と合致し、第2代化学研究所(化研)所長として、化研でも理研に倣って「研究室制度」を採用し、各研究室に研究室運営に関わる予算や人事などの権限を与えて研究所運営を行いました。
国策科学
喜多は、当時の日本の状況を踏まえ、自給自足経済のための研究を促進することが工業化学者としての使命であると考え、繊維(化学繊維・合成繊維)、人造石油、合成ゴムへと研究の重心を移していきました。これらは国防上重要な物資であり、当時「国策科学」と呼ばれた方向性に沿うものでした。
これらの研究は基礎研究から中間工業試験(パイロットプラント)へと発展しました。喜多は理研からの資金だけでなく、産業界からの援助をもとに、研究活動を拡大していきました。
当時、化研の所員は多くの場合、学部の教授が兼任していましたが、基礎研究は学部で行い、その成果を工業化につなげるための中間工業試験は化研で行うという役割分担がありました。
監修:古川安
参考文献:古川安『化学者たちの京都学派』(京都大学学術出版会), 2017
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